香を

香の歴史

⾹⽊漂着から1400年以上。
お⾹が歩んできた歴史を紹介いたします。

仏教伝来と⾹⽊の漂着

⾶⿃・奈良時代の⾹りは隋・唐の⾹りをそのまま移植したものが多く、宗教⾊の強いものでした。しかし正倉院に現存する調合⾹「えび⾹」が経本や⾐服の防⾍・加⾹に⽤いられたことから、実⽤品として⽣活に取り⼊れられていたことも分かります。また、煉⾹が伝わったことにより⽇本の⾹りとしての基盤が強化され、次の平安時代の⾹り⽂化の礎となり、花開いていくことになります。

⾶⿃時代 538
仏教伝来

仏教伝来以前の⽇本の宗教的な⾹りは杉・檜・榊など⽊の⾹りを凝縮した⾃然そのままの⾹りでしたが、仏教伝来とともに「⾹」が伝わります。それまでの⾹りよりも濃密な⾹りを持つ焚⾹料が渡来し、仏教儀礼の場⾯で使⽤されるようになります。

⾶⿃時代 595
淡路島に⾹⽊が漂着

日本書紀には推古天皇3年(595年)4月に淡路島に香木が漂着し、それを焚いた島人がその芳香に驚いて朝廷に献上し、聖徳太子が沈香と鑑定したとの記載があります。このことから、上層階級には香木の知識もあり香に触れる機会もありましたが、庶民の間にまで普及していなかったことが分かります。

奈良時代 753
鑑真和上の来⽇

唐との交易の中で重要な出来事として、鑑真和上の来日があります。その同行品には香料や医薬品が含まれており、煉香の製造方法も伝えられました。それまでのお香は供香(焼香としての使い方)でしたが、煉香が伝わったことにより、間接的に熱を加えて使用するたき方が加わりました。

平安貴族と⾹り

平安時代は宗教とは切り離された趣味としての香りが花開いた時代でした。 薫物が全盛期ではありましたが、端午の節句に薬玉(中に調合香を入れた球状のもの)が贈答に使われたり、訶梨勒(薬用効果があるとされた、訶梨勒の実である訶子を模った袋に香や訶子を詰めたもの)を魔よけに使うなど、室内用香り袋の原形となるものも生まれました。
香り文化はこの時代に大きく飛躍し、次の時代へ進展していくことになります。

平安時代 794 平安京遷都 公家社会の始まり

◎教養としての⾹り

奈良時代に伝わった煉香は平安時代には薫物として発展し、平安貴族たちの間で流行しました。彼らは香原料を自ら調合し、自分だけの香りを創りだしていました。薫物を部屋や衣裳に焚き込め、姿を見ずともその香りで誰か識別できたとも言われています。
薫物の調合法は各家、各人の秘伝とされ、同時に社交的な教養の一つでもありました。

◎六種の薫物

貴族の間で普及した薫物はやがて六種の大きな主題に分類され、その下で私的な副題を設定するようになります。
黒方・梅花・荷葉・菊花・落葉・侍従の六種を基本とし(六種の薫物)、主題は同じでもそれぞれの香りの背景や趣きなど、調合する人によって設定が変わるため、香りも各人により異なっていました。

◎薫物合わせの流行

薫物を作るうちにお互いが香りを披露するようになり、それは薫物合せへと進展していきます。これは薫物の香りだけでなく香りの背景までも総合的に優劣を判じるもので、貴族たちの間でさかんに行われていました。その様子は源氏物語「梅枝巻」にも描かれています。

薫物から⾹⽊へ

平安末期より武士が台頭してくると、香り文化の主役であった薫物は香木、なかでも沈香にその座を譲ります。 優美な雰囲気をもつ薫物よりも清爽な香りをもつ沈香を武家がより好んだためです。 鎮静効果に優れる沈香は、戦の前の高ぶる気持ちを鎮めるなど、香りの精神性を重用されたと思われます。

鎌倉時代〜安土桃山時代 1192 鎌倉幕府の成立 公家社会から武家社会へ

◎交易の発達と
⾹⽊の流通

交易が盛んになったことから、多くの産地より、多種の香木が流通するようになります。
良質の香木が入手できるようになったことから、それまでは供香として続いていた香木中心の焚香が、趣味の香りとして薫物の代わりに普及し始めました。
「伽羅」の概念が生じるのもこの頃で、有力者たちによる香木の収集も進み、その過程で香りを深く感じる姿勢が生まれました。「聞」とは中国語で嗅ぐの意ですが、日本語での「聞く」は理解しようとする、心を傾ける、と理解してよいでしょう。

◎⾹道の成立

南北朝時代の婆裟羅大名・佐々木道誉は多くの香木を所有し、様々な香木に附名しました。
また、室町幕府八代将軍・足利義政は自身が収集したものや、道誉から受け継いだ香木により東山山荘にて聞香三昧の日々を送ったとされています。
義政公は、その莫大な量の香木を分類する必要に迫られ、当時香りのエキスパートであった三条西実隆(御家流流祖)や、志野宗信(志野流流祖)を中心に「六国五味」という分類法を編み出し、用具や聞香方式も様式化され、香道が成立していきます。
(※六国とは香りの性質を表す伽羅・羅国・真南蛮・真那賀・寸門陀羅・佐曽羅。五味とは香りを味で表した甘・酸・辛・鹹・苦のこと)

◎権⼒者と⾹木

香木、特に伽羅・沈香の付加価値は次第に増大し、権力の象徴的側面を持つようになります。
織田信長は自らの権威を示す為、東大寺秘蔵の蘭奢待を勅許を得て裁断しました。この蘭奢待は信長の他にも足利義政、明治天皇によって裁断されています。
又、豊臣秀吉など他の権力者も香木の収集に熱心で、中でも徳川家康の香木への執心は群を抜いていたと言われています。

⾹道の隆盛

戦国時代により混乱を極めた政局は、豊臣政権の崩壊から徳川政権への移行によって収束し、やがて安定した時代を迎えます。人々の意識は経済の発展へ向けられ、様々な文化が花開きます。そして香道もまたその潮流にのり、大きく発展いたします。

江戸時代 1603 江戸幕府の成立

◎⾹りの⼤衆化

江戸時代に入ると政治の安定と経済が発達したこともあり、元禄時代には高級香材の使用が一般社会にも及び、香道も武士はもちろん、有力町人層にまで広く浸透しました。上流階級には必須教養の一つであり、習得者も男性中心であったようです。普及とともに、香道の中でも香りを聞き当てる組香は充実期を迎え、七夕香や源氏香、競馬香など時代に即した視覚的で華やかな組香が多く考案されました。

◎線香の製造

十六世紀半ば以降には線香が普及し始めていましたが、その頃はまだ中国からの輸入品でした。線香の国産化は十七世紀末から十八世紀初め頃に始まりました。その製造方法は当時から現在まで基本的に変わりません。
この線香は庶民の間にも広く普及し、当時は時計代わりに、計時にも使われました。
現在でも宗教儀礼から一般家庭までさまざまな場面で使われ、最も身近な薫香製品であるといえるでしょう。

現代の⾹り

明治時代にはいると、流通はさらに大きくなり、日本は国際化の一途を辿りました。しかし同様に大きな戦争も経験する事になり、これまで築き上げられた多くの文化は衰退する事となりました。香道もまた文明開化の流れによって大きな危機を迎えましたが、再び見直される事となり、今日に至ります。